3月27日、彼はセントルシアでハイド・パーカー卿と合流した。フランスのグッシェンはマルティニーク島のフォール・ロワイヤルに撤退した。7月までロドニーとグッシェンの部隊は力が均衡しており、マルティニーク島近くでの行動を続けた。イギリスの提督は接近戦を挑もうとしていたが4月17日の最初の遭遇戦(マルティニーク島の海戦)では、ロドニーの命令を艦長達が取り違え、決着が付かなかった。彼は敵の戦列の後部に自部隊を集中させようとしたが、彼の部下の艦長達はフランス艦隊の戦列に添って散開してしまい、攻撃の集中を欠いてしまったのである。5月15日と19日も接近があったが、フランスの提督が交戦を求めなかった。
スペインの戦列艦12隻からなる艦隊が6月に到着し、連合軍が数的優位に立ったので、ロドニーはセントルシア島のグロスアイレット湾に撤退した。しかし決定的なことは何も起こらなかった。スペイン艦隊は準備ができておらず、フランス艦隊は休養を必要としていたからである。スペイン艦隊はハバナに行き、フランス艦隊はサン・ドマングに向かった。7月、ハリケーンシーズンの到来により、ロドニーは9月14日ニューヨークに移動した。グッシェンは疲れ果てた艦隊を引きつれて帰国した。12月6日、ロドニーは北アメリカでは何も出来なかったので、バルバドスに戻ったが、バルバドスに残した艦隊は10月に起こった「1780年のグレートハリケーン」で
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的な打撃を受けていた。
1780年暮れまでの海軍軍事行動は一貫性のないものであったが、1781年になってある程度筋の通ったものになってきた。連合軍は西インド諸島やミノルカ島、ジブラルタルといった2次的な目標に方針を変えた。イギリス軍は、防御的な動きに専心した。オランダが連合軍に加わったため、イギリス政府は北海の通商を守るために他の方面から艦隊を割かざるを得なかった。8月5日にドッガーバンクでサー・ハイド・パーカーとオランダのズートマン提督の間で激しい戦いがあった。どちらも商船の護衛にあたっていた時のことである。しかし、オランダは戦争の行方に大きな影響を与えることはできなかった。連合軍は再度海峡でイギリス艦隊に戦いを挑んだが失敗した。彼らはまた、イギリスのジョージ・ダービー提督が4月に行ったジブラルタルやミノルカ島の救援を妨げることもできなかった。しかしミノルカ島はその後厳重に包囲され、1782年2月5日には降伏を余儀なくされた。フランスは西インド諸島とアメリカで積極策を展開し、東インドでもイギリスの優位を脅かす攻撃を始めた。
西インド諸島では、ロドニーがその年の早くにオランダ参戦の報を聞いて、1781年2月3日に戦時禁制品の大きな保管場所であったシント・ユースタティウス島を占領した。ロドニーは戦利品の確保と売却を独り占めし、最近着任した副将サー・サミュエル・フッドにも係わらせなかったとして告発された。フッドは、マルティニーク島に向かうと考えられているフランス艦隊の到着を阻止するために適切な対応を行った。フランスの提督、ド・グラスは増援部隊とともに4月に到着した。彼は7月までの間、ロドニーとの戦闘を避けながら、巧みにイギリス軍の島を脅かす戦術を取った。7月になると彼は北アメリカ沿岸部に向けて移動し、8月、健康を害して帰国していたロドニーに代わって指揮を取っていたフッドの後を追った。
北アメリカ沿岸では戦争は
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な局面にあった。その年の前半はイギリス軍がニューヨークに、フランス軍がニューポートにあってにらみ合っていた。4月に、イギリスのアーバスノット提督が、ヴァージニアに増援を運ぶフランスの試みを阻止することに成功した。彼は4月16日にヴァージニアの沖合いで戦い(ヘンリー岬の海戦)、指揮は拙劣だったが主たる目的は果たされた。ジョージ・ワシントンはヴァージニアあるいはニューヨークのイギリス軍のどれか一つに攻撃を集中させようと切望していたが、それを実行するにはド・グラスの到着を待つ必要があった。フランスの提督は、ヴァージニア沿岸では海軍力で優位にたっており、イギリス軍の司令官コーンウォリス卿はヨークタウンで孤立していた。アーバスノットの後任、トーマス・グレイブス提督は西インド諸島からフッドの増援を受けてフランス艦隊を駆逐しようとした。しかし9月5日の不本意な戦い(チェサピーク湾の海戦)で彼は敗れ、フランス艦隊によるチェサピーク湾の占拠を排除することができなかった。ド・グラスは増援を受け取り、グレイブスは去った。ヨークタウンは10月19日に陥落し、北アメリカ沿岸での戦いは終わった。
フランスの提督は西インド諸島に帰り、フッドの追撃を受けながらイギリスの島々の攻撃を再開した。1782年の1月と2月に、ド・グラスはフッドの決死的な抵抗を排除してセントクリストファー島を占領した。フッドは劣勢の艦隊を率いながら、バセテールを根拠地としてフランス艦隊に何度も立ち向かった。フランスの次の目標はスペインと協働してジャマイカを攻撃することだった。サー・ジョージ・ロドニーが援軍を連れてイギリスから戻り、1782年4月12日のセインツの海戦に代表される一連の作戦行動によってその計画を頓挫させた。これ以後、西インド諸島では特記すべき作戦行動は行われていない。イギリス本国ではハウ提督が1782年9月と10月に包囲されていたジブラルタルをついに解放した。
アメリカ独立戦争の東インド方面への影響には、いくつかの別個の流れが存在する。1778年、フランスの参戦に直ちに対応したイギリスはフランスの植民地ポンディシェリーを難なく占領した。8月10日にはベンガル湾でイギリスの海軍士官の率いる部隊とフランスのM・ド・トロンジョリーとの間で小さな海戦があったが、この
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のフランス軍は攻勢に出るにはあまりに非力で、1782年の初めまでブルボン島(レユニオン島)とモーリシャス島にとどまっていた。
1781年春、フランスのピエール・アンドレ・ド・シュフラン提督が小戦隊とともに東洋に派遣された。彼はその途中、喜望峰をオランダから奪取すべく派遣されたイギリス艦隊がポルトガル領ポルト・プラヤに停泊しているのを発見し、4月16日、これを破った(ポルト・プラヤの海戦)。喜望峰の安全を確保した後、シュフランはフランス領の諸島に向かった。1782年、彼はベンガル湾のイギリス軍に激しい攻撃を仕掛けるべく、年の初めから活動を開始した。1782年の2月17日から1783年の6月20日まで、彼はイギリスのエドワード・ヒューズ提督とたびたび戦い、海域の制海権を確保した。彼には船を修理する港もなく、またインド・マイソールの太守
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との同盟も維持できなかったにもかかわらず、北東モンスーンの時期ですらフランス領諸島に戻らず、海を支配し続けた。シュフランは、ヒューズと戦いながらイギリス艦隊に甚大な損害を与え、1782年7月にはスリランカのトリンコマリーを占領した。
シュトイベンは1730年にプロイセンのマグデブルクで、技師中尉ヴィルヘルム・アウグスティン・シュトイベン(1699年 - 1783年)の息子として生まれた。シュトイベンは、プロイセン王兼ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が、シュトイベンの父親にロシア帝国へ行って時のロシア女帝アンナ1世に仕えるよう命令した時に、父親のヴィルヘルムに従ってロシアへ同行した。1740年、フリードリヒ2世がプロイセン王を継承した後にシュトイベンの一家はプロイセンに戻った。
シュトイベンは、ブレスラウのイエズス会で教育を受け、17歳の時プロイセン陸軍に士官として入った。歩兵隊の参謀将校の一員として七年戦争に従軍した後、参謀本部の一員として一時的にロシアで働いた。シュトイベンの勤務態度は賞賛に値するものだったので、最終的にはフリードリヒ2世の参謀職を割り当てられた。プロイセン陸軍での参謀本部員としての経験は豊かな知識を彼に植え付けた。シュトイベンの訓練は軍隊に必要とされる技術的な知識を大陸軍の兵士にもたらすことになった。
シュトイベンの銅像en:Valley Forgeシュトイベンが33歳になった1763年、ほんの思いつきで陸軍大尉のまま除隊した。翌年、ホーエンツォレルン・ヘッチンゲンの王宮で執事となった時に男爵号を贈られた。シュトイベンは、廷臣として1771年にお忍びでフランスへ行く王子に同行した。この時は借金できることを期待していた。資金造りに失敗し、負債を抱えたまま1775年にドイツに帰った。運命を変えるべく仕事を求めて、シュトイベンはオーストリアや、バーデン、フランスなどの国外軍隊に求職活動を行った。シュトイベンは、パリにベンジャミン・フランクリンが居るのを知って、アメリカの大陸軍ならば仕事が見つかるに違いないと思った。
シュトイベンは1777年の夏にパリに行った。
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にも、シュトイベンはフランス陸軍長官のクロード・ルイの紹介状を得た。ルイはプロイセンの参謀本部員として訓練に関わったシュトイベンの潜在的な能力を十分認識していた。フランクリンからワシントンに宛てた手紙の中では「プロイセン王に仕えた中将」とシュトイベンの軍歴にしては大げさな言い方で紹介された。シュトイベンは旅行費用を集めてマルセイユから出港した。1777年9月26日、ニューハンプシャーのポーツマスに到着し、12月1日にはボストンで法外に歓待された。大陸会議は当時フィラデルフィアを追い出され、その年の冬と翌1778年2月5日にはペンシルバニアのヨークで開かれていたが、シュトイベンもこれに同行した。大陸会議は当面無給でシュトイベンの志願を認め、2月23日、バレーフォージにいたワシントンに付くように指示した。シュトイベンは英語を話さなかったが、フランス語で何人かの将校と話ができた。アレクサンダー・ハミルトンとナサニエル・グリーンはこの面で大きな助けになった。この二人はシュトイベンが兵士の訓練計画を作るのを助け、3月には総司令官の許可を取り付けた。
1781年シュトイベンはイギリス軍のジョン・アンドレ少佐に対するスパイ容疑で軍法会議に出席した。同年、少将としてヨークタウンの包囲戦に参加した。独立戦争の終了後、シュトイベンは幾つかの州から土地の提供申し出を受けたが、最終的に大陸会議が年金$2,500ということにした。シュトイベンは1783年にアメリカ市民となった。
シュトイベンは合衆国建国の父の一人と考えられている。監察官に指名され、軍隊を作り、その組織を再構築し、優秀な参謀を養成し、火器の比率を改善する戦術マニュアルを揃えた。これらの多くは今日にいたる軍組織構造に生かされている。