七年戦争では、チェロキー族はイギリス軍とともにフランスと戦い、アメリカ独立戦争では大陸軍に対して戦うことに決めた。これは土地に飢えた愛国者開拓民の蚕食を防ぐためという理由が大きかった。独立戦争中はチェロキー族が特に大きな被害を受け多くの男達が殺されたために、多くの寡婦ができてしまった。戦争終結後チェロキー族の女性の数は男性の数の10倍にもなったという試算もある。この両性の数の違いは戦士の位置付けを上昇させチェロキー族社会の両性の役割と力関係を変えたという歴史家もいる。
チェロキー族は多くの意味でアメリカ先住民の経験した途方もない例であるが、最も変化し積極的に「文明化」を取り入れた集団でもある。多くのチェロキー族男女が完全に白人社会に融け込んだ。しかし、1830年に制定されたアメリカ・インディアン移住法によって、「涙の道」を辿って移住を強制され、現在はオクラホマ州に住んでいる。新政府の同化政策に強く抵抗したチェロキー族もいた。
結局、チェロキー族のように強制移住させられた先住民は独立戦争中にアメリカ愛国者側についたといっても結果は変わらなかった。愛国者側についた者も、イギリスについた者も、また中立であった者も一様に強化された居住地制限を課されることになった。
アメリカ独立戦争の前、カトーバ族とヨーロッパ系移住者の間の関係は用心しながら敵対的なものであり、どちらも開戦に興味を抱かなかった。土地の所有問題での緊張が紛争を生んだ。開拓者達が私有地と信じ土地の周りに柵を張り巡らせる一方で、カトーバ族は何者も土地の所有権を主張できないものと信じて柵を倒してしまった。カトーバ族の男達は「ゲーム」を求めて辺りをうろつき回り、開拓者達は狩人を侵略者と見なして狩りの宿営地を壊した。開拓者達は新しい農耕法ももたらし、カトーバ族の生活様式を変えた。どの社会も農耕に深く依存していたようにカトーバ族もその存続の道を農耕の追求に変えていった。この変化は男達が狩りをする傍らで農耕に励んでいた女性達に特に影響した。他の部族のようにカトーバ族は伝統的な生活様式を維持できなかった。生き残るためには開拓者との共存の道を探らねばならなかった。カトーバ族の女性が作った生活用品を開拓者達と取引し、伝統工芸が益の出る事業に変わった。1772年頃にはカトーバ族の女性達が工芸品を持って開拓者達の家に売り歩いた。
カトーバ族が開拓者達との関係を改善する最良の道はアメリカ独立戦争に
外国為替
することだった。その居住地の位置から見て選択肢はあまりなかった。南部先住民の監督者ジョン・スチュアートは1775年に「彼らはノースカロライナとサウスカロライナの開拓地に散らばって住んでいる」と記録した。1775年7月、2人のカトーバ族がチャールストンを訪れ、王党派と植民地人の争いについて多くを学んでいった。植民地人の安全委員会は植民地の不満を説明する文書を携えた代表団を派遣し、カトーバ族が南部カロライナと友好を保つこと、交易を続け働いてくれたカトーバ族には賃金を支払うことを伝え、カトーバ族が協力を拒めば何が起こるかを警告した。それに続く8年以上の間、カトーバ族は愛国者側で戦い、愛国者側に対する忠誠を示しもした。イギリス軍は先住民を家から追い出し、村や作物を破壊した。
独立戦争中カトーバ族の戦士は南部の多くの戦いで大陸軍について戦った。家に残っていたカトーバ族は愛国者達に食料を供給した。カトーバ族においても伝統的に女性と子供達が農業に携わる役目であったので、戦時に愛国者側に供給する責任が女性達に重く課せられた。カトーバ族の中にはその隣人、他の種族に非公式の外交大使となったものもいた。その一人がサリー・ニュー・リバーという女性で、同族の人からもまた土地の白人からも敬意をもって迎えられた。訪問者が予告無しに到着した時、リバーは準備ができていると請け合った。リバーは家長がカトーバ族の土地を初めて賃貸した白人であるスプラット家との付き合いが長かった。彼女の死後50年経っても、土地の白人達は「老いたるサリーおばさん」と言って懐かしんだ。
しかし全体的に見て、カトーバ族の戦争における役割は「むしろ無視できる」程度のものだった。戦争に参加した者の数も少なく、この種族が戦闘の勝敗を決するようなことはなかった。カトーバ族の貢献の意味はその活動的で目に見える支持であった。愛国者側との同盟は急速に変化する環境への適応を容易にした。1782年に州政府は夏を乗り切るためのトウモロコシ500ブッシェル (1760 リットル)を送り、軍隊に協力した者に給与を支払い、供給した物資に対する補償を行った。しかし、カトーバ族に対する開拓者達の一時的な親密感は将来を保証するものではなかった。先住民はキリスト教に対する無関心を続け、カトーバ族の中から選ばれた者をウィリアム・アンド・メアリー大学で教育し彼らが村に帰って改宗しあるいは他のものを改宗させることを期待していた開拓者達をいらつかせた。この努力は失敗したが、先住民の劣等性について一般の感情をかき立てる役割は果たした。
カトーバ族と開拓者達の
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の関係は、カトーバ族が愛国者側で戦うと決断したにも拘わらず、長い間改善されなかった。独立戦争の後で、以前先住民から土地を借りていたものが所有者になることを要求した。1830年代には、サウスカロライナ議会が土地の売却について交渉団を派遣した。続く圧力と合衆国政府の移住政策により、1840年の春、ネーション・フォード条約の調印ということになった。この条約では、カトーバ族は144,000エーカー (576 平方km)の土地をサウスカロライナに譲渡することになった。この同意によってカトーバ族の国家は絶えた。サウスカロライナ州知事デイビッド・ジョンソンは1847年にカトーバ族について「国家として、彼らは事実上解体された」と語った。
アメリカ独立戦争の自由と平等という美辞麗句の影に隠れて、間もなく合衆国となる国で最も虐げられた集団は同時期の学者達にも忘れられる存在だった。アフリカ系アメリカ人の女性達は、その大多数は奴隷であり、戦中に重要な役割を果たしたものの、その始まりに期待した程には得るものが少なかった者達である。
1770年代、アフリカ系アメリカ人の大多数は北部でも南部でも奴隷であった。戦争への緊張が高まった時に、イギリスは奴隷が植民地の弱点であることに気付いた。実際にアメリカ独立戦争の前後の20年間というものは、奴隷社会の動揺が最も大きかった。1775年1月、イギリスの議会はすべてのイギリス領土における一般の開放が提案され、「バージニアや南部植民地の謙虚な貴族階級の精神」を政治的に操作しようとした。(イギリス議会及びウェストミンスター・ホールにおけるエドマンド・バークの演説)植民地の奴隷達はその要求に対するイギリスの開放性を認めた。1774年2人の奴隷が、イギリス軍の総司令官でマサチューセッツ総督のトマス・ゲイジに、戦争で戦う替わりに自由を請願した。
奴隷制度は南部社会の根幹であり、イギリスはその解体が南部の抵抗を弱めるものと考えた。1775年4月、バージニア植民地知事のダンモア卿はバージニア議会が反抗を企んでいると疑い、植民地の火薬庫を押収した。このことが武器を取った暴動に繋がった。ダンモア卿はバージニアの海岸から軍艦で逃げる際にダンモアの宣言を発した。この宣言は戒厳令を発し、「すべての契約に基づく召使い、黒人その他の者は自分の意志で武器を取ることができる」として解放を提案していた。1775年の
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提案と同様に、ダンモアの宣言はバージニアの奴隷保有者を怖がらせ奴隷達を勇気づける意図があった。特に黒人男性は主人を捨て、平等の理念に基づく反乱を起こさないように意図された。
ダンモアの宣言に反応した奴隷の3分の1は
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であった。植民地時代に逃亡者の約8分の1は女性だった。逃亡を試みた女性の比率が小さかったのは、彼女たちが奴隷家族をつなぎ止める役目を果たしていたからであった。大部分の女性は家族、特に子供を残して逃げることはなく、もし大集団で走れば捕まる可能性を急激に増すものだったので、単に逃亡しない選択をしていただけだった。もし奴隷の女性が所有者のもとを離れるとすれば、売られてしまった家族と再会するためであることが多かった。
ダンモア卿の宿営地に殺到した男達の中には実際に戦闘に参加する者もいた。ダンモアは元奴隷の中から約500名の「エチオピア連隊」を作り、彼らの前の主人との戦いに加わらせた。しばしば彼らの妻達も従軍させ、宿営地の料理人、洗濯女、看護婦をやらせた。ダンモアの主宿営地にいた独身女性も同じような仕事に就いた。