1776年6月、ヘンリー・クリントン将軍が、主人のもとから逃れイギリス軍宿営地に駆け込んだ奴隷は「この戦線の内側での安全と適当と考える職業を保証する」約束を宣言した。イギリスの奴隷に関する宣言と同様に、クリントンの宣言は自己中心的で二律背反的であり、戦後の自由を得るために大陸軍に加わったアフリカ系アメリカ人の存在によって警告を発せられた。しかし南部の奴隷所有者達は、クリントンのフィリスバーグ宣言を彼らの
個人向け国債
と人生に対する攻撃であり、無政府状態を生むものと見なした。この宣言は反イギリス感情を喚起し、南部愛国者を励ます声を強くすることになった。
フィリスバーグ宣言後にクリントン将軍のもとに加わった奴隷達の多くは家族ごと家を離れたものであった。クリントンはこれらの黒人を登録して、平和と秩序を脅かすとも見られる主のない多くの男達を管理しようとした。この登録作業の中でクリントンは、王党派のシンパから逃げ出した奴隷をすべて元に帰らせた。
留まることを許された奴隷の中で、労働の仕分けは性別で分けられた。男は通常、砲兵部隊や工兵部隊で、大工、車輪修理工、鍛冶、木こり、道具の修理人、馬車や台座の作成と修理を行う者などとして雇われた。男も女もマスケット銃の薬包を作ったり、飢えた兵士のために食肉処理したり保存したりした。南部の黒人女性と子供達は辺りの地形を良く知っていたので、間違えやすく湿地の多い地域では道案内を務めた。
イギリス軍はこれらの
資産運用
達を戦利品と見ていた。士官達は奴隷を自分のものにし、多くの元奴隷が個人的な召使いとして仕えた。イギリス政府はこれに対する異議を唱え、彼らは王室の財産であり、公的な作業計画での労働、あるいは一般的な形で農耕に従事させるべきであるとした。大部隊のイギリス軍は常に食料の補給を必要とし、船で運ぶのは高くついたので、農耕労働は是非とも必要なものであった。これらの奴隷達は奉仕の見返りとして解放を約束された。
南部における多くの奴隷所有者は逃亡や戦争による奴隷の殺害を防ぐために、その奴隷達を匿うようになった。彼らは実戦とは遠く離れた地域、通常はフロリダや西部辺境域の所有地に送られた。
イギリス軍と同様に、アメリカ政府も黒人達を軍隊の潜在的な戦力と認識していた。しかし、ジョージ・ワシントン将軍は当初、人種問題に基づく反論のために、また管理できなくなるくらい多くの黒人が徴兵されることを恐れて、解放と引き替えに奴隷達を戦争に駆り立てることを逡巡していた。それゆえに、戦争の開始とともに自由黒人、人口でみればほんの数パーセントが従軍することを許された。しかし、1777年から1778年にかけてのバレーフォージの冬、ワシントンは戦力の不足を感じて、あらゆる黒人男性の入隊を認めた。さらに黒人奴隷はその主人のもとで、あるいは監督下で従軍できるものとした。イギリス軍にいたドイツ人傭兵の士官は1777年に「黒人が沢山いない連隊はみあたらない」としている。大陸軍には、ダンモアのエチオピア連隊と同じく、すべて黒人からなる大隊が2個あった。
南部の愛国者にとって、黒人奴隷の女性は必要なものであった。彼女たちは、チャールストンやサバンナなどあちこちの町や都市の包囲戦で防壁を作ったり修理したりする大量の労働力であった。
戦争の終わった直後の期間はアフリカ系アメリカ人にとって多くの期待と優柔不断が続いた時期であった。新国家はその理想に則って奴隷制度を廃止するものと予測する者が多かった。しかし、奴隷制度は事実上新憲法にも組み入れられた。奴隷制度が通常見られず特に利益にも繋がらなかった北部諸州ですら、段階的奴隷制度廃止に多くの年月と法廷闘争を要することになった。
法廷闘争の有名な例は西部マサチューセッツで育った
ipo
のマム・ベット事件である。1781年にマム・ベットは所有者のもとを離れ弁護士セオドル・セジウィックの支援により、裁判所に請願した。その内容は奴隷制度が「人間は生まれながらに自由で平等である」とうたった新しいマサチューセッツ憲法前文に相容れないものであるということであった。州裁判所は2年後に判決を下し、奴隷制度はマサチューセッツ州では違法であると宣言した。マム・ベットはもはや奴隷ではなくなったので、エリザベス・フリーマンを名乗った。同様に1782年、ベリンダという名の奴隷女性が、その解放のためではなく、奴隷として仕えた50年間に対する補償を求めてマサチューセッツ議会に請願を行った。しかし、すべての州がマサチューセッツの先例に素早く反応したわけではなく、1810年でも北部諸州にまだ27,000名の奴隷が存在した。
終戦後、17世紀の大陸移民ほど多くはないにしても、多くの黒人が北部の都市に移動した。この移動は大部分が女性であった。独立戦争前の北部の都市人口は男性が圧倒的多数であった。1806年までにニューヨーク市の女性人口は男性に対して4対3にまでなった。この不均衡の拡大は海洋産業が独立戦争後の最大の黒人男性雇用者となったことで、多くの若い黒人男性が一時に数年間海に出て行ったことによっていた。北部の農村地帯にいるアフリカ系アメリカ人はまだ男性の方が多かった。
北部の都市に住んだ黒人の多くはサービス
株
に雇われた。料理や配達、馬小屋の掃除、散髪や御者などであった。この都市黒人社会では家庭生活が崩壊した。多くの家族は独立戦争の間に、その混乱の中であるいは奴隷に戻って、家族の一員を失っていた。多くの雇用者は黒人の家族を丸抱えすることは拒み、家庭内の女性あるいは男性の労働者のみを雇うことを好んだ。一緒に住むことを選んだ家庭は下宿人をとって収入を補うか、他の黒人家族と同居して、独立戦争後の伝統に囚われない黒人家庭の生活様式を作っていった。
南部では奴隷制度がより揺るぎないものになり、西部にも広がるにつれて、崩壊する家庭が増えた。例えばチェサピーク地域では、農耕と経済の態様が戦後に変わった。現金を生む作物としての煙草は労働集約的であったので、これを嫌って他の作物に転換する農場主が多かった。奴隷による農業が拡張していた低地南部や西部に多くの奴隷が売られて行った。売られない奴隷であっても技能を持った男達は賃貸されて家族からは切り離された。
戦後、多くの王党派が合衆国を離れ、ノバスコシアやイギリス領バミューダ諸島に移住した。彼らは
株
も帯同したが、奴隷にされたアフリカ系アメリカ人は解放を経験することもなく、偏見が減るでもなく、また自由黒人は多くの試練を味わうことになった。
独立戦争の美辞麗句は多くの変化を約束したが、アフリカ系アメリカ人、特にその女性にとっては約束はほとんど果たされなかった。多くの女性の位置付けは、いいようには変わらなかった。南部では家庭生活が不安定なものになり、北部では奴隷制度が徐々に廃止されたが、経済的な機会や家族の安定は都市部でゆっくりと失われていった。黒人女性は愛国者側にも王党派側にも大きく貢献したが、その進む方向は予想外のものになっていった。
シンシナティ協会の概念はおそらくヘンリー・ノックス少将に端を発していた。協会の最初の集会は、まだイギリス軍がニューヨーク市から撤退する前の1783年5月に、ニューヨークのニューバーグ市に近いフィッシュキル(今日のビーコン)での晩餐会の席であった。集会の議長はアレクサンダー・ハミルトン中佐が務め、参加者は戦後も互いに連絡を取り合うことを決めた。会員は通常、最近3年間大陸軍または大陸海軍に従軍した士官と限定したが、フランス陸軍とフランス海軍のある階級以上の士官も含めることにした。後に会員資格は当初の会員が死んだ後にその長子(男子)に継承された。今日の世襲会員は一般に大陸軍または大陸海軍に3年間以上従軍した士官、従軍中に戦死した士官および独立戦争終戦時に従軍していた士官の子孫である必要がある。
協会の名前は、共和政ローマの執政官としての条件を受け入れてその農園を離れ、短期間独裁官となり、戦争のような緊急事態に対応するため法に適った専制を行ったキンキナトゥスに因んで付けられた。キンキナトゥスは戦争が終わると権力を元老院に返還しその農園を耕しに戻った。協会のモットーはその無償の奉仕という倫理観を反映するものであり、「Omnia relinquit servare rempublicam」(彼は全てを擲って共和国に仕えた)である。協会の結成当初から3つの目的があり、「Immutable Principles」(普遍の原理)と呼ばれている。