協会の設立から12ヶ月以内に各州とフランスに支部が結成された。当初会員適格者と目された約5,500名の中で、2,150名が1年以内に加入した。フランス王ルイ16世は1784年7月4日に結成されたフランス・シンシナティ協会を公認した。その時まで、フランス王はフランスの士官が外国の勲章を付けることを許していなかったが、シンシナティの記章に限っては許した。協会の会員になりたい者が多かったので、この記章は間もなくフランスのナイトの勲位叙任者と同じくらい誰もが欲しがるものになった。
ジョージ・ワシントンが初代会長に選出された。ワシントンは1783年12月からその死の1799年まで会長職にあった。第2代会長はアレクサンダー・ハミルトンであった。
協会は一般にアメリカの主要な世襲団体と考えられている。その会員は、アメリカ合衆国憲法の署名者54人のうち23人を初めとして、アメリカの歴史でも傑出した軍事指導者と公僕の多くを含んでいた。協会は北アメリカでも最古の現在に残る軍事協会である。
シンシナティ協会の紋章1783年6月19日、協会はハクトウワシをその記章として採用した。昔も今も協会に大事にされ、それはアメリカの独立以後最初のシンボルであり、アメリカの豊富な表象文化の中でも重要なものとなった。アメリカ合衆国の国章の制定に遅れること364日で、アメリカをハクトウワシで表した2番目の紋章になった。
協会の紋章にハクトウワシを使うことは
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に大陸軍に加わり、工兵隊で従軍し、後に協会員にもなったフランス人士官ピエール・ランファン少佐が示唆した。この提案の時にランファンは、「ハクトウワシはこの大陸固有のものであり、その白い頭と尾羽で他のものと見分けが付きやすいので、注目するに値すると思う」と注釈していた。1783年、ランファン少佐は自分のデザインを元に最初のワシの記章を作らせるためにフランスへ出張した。後のことであるが、ランファンはワシントンD.C.の都市計画にも関わることになった。
記章表面のシンシナティ・イーグルの中央にある円形模様は、ローマ元老院から刀を受け取るキンキナトゥスを表しており、裏面はキンキナトゥスが栄誉の象徴を頭に戴いて畑を耕している姿を表している。協会の色は明るい青と白であり、アメリカ合衆国とフランスの兄弟的な繋がりを示している。
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が付けていたワシの記章は1824年に特別の意味合いを持ってラファイエットに寄贈され、以降はラファイエット家に所蔵されている[1]。
シンシナティ・イーグルは公共の様々に重要な場所に展示されており、例えばオハイオ州シンシナティ市のファウンテン広場では
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条旗とシンシナティ市の旗と並んでいる。協会の旗は青と白の縞模様に、左上の掲揚用の紐に近い四角(キャントン)は濃い青である。キャントンではシンシナティ・イーグルの周りを14の星が取り囲んでいる。
独立戦争終戦後の年月で協会員の数は拡大を続けた。会員は合衆国政府や多くの州政府の要職に就いていた。協会はその設立目的を体現することになった。しかし、トーマス・ジェファーソンなどは世襲的特権階級を作り出すことに警告を発していた。会員資格は長子相続制によって受け継がれ、一般の兵士を排除していた。多くの場合、相当期間州の軍隊や大陸軍に関わっていなければ、民兵の士官も排除されていた。
ベンジャミン・フランクリンも当初から協会に批判的であった。ただし、フランクリンは後に共和国における協会の役割を認め、国が安定した後では名誉会員にすらなった。フランクリンは貴族階級を作ることを心配しただけでなく、ワシの紋章を使うことが世襲という慣習を想起させることも恐れていた。フランクリンはシンシナティ・イーグルに関する論評の中で、直接ではないが兄貴分のアメリカ合衆国の国章についてもやわらかく抗議していた。
1784年1月26日、フランクリンは唯一の娘サラ・ベイチェに宛てた手紙の中で、協会の及ぼす悪影響とワシのイメージに国の性格に対する影響について長々と認めていた。そのイメージが協会の紋章の円形模様に描かれることになったので、フランクリンは次のように書いていた。
リボンとメダルを持ってフランスに旅した紳士は立派にその
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を果たした。私にはそれがまあまあの成果には見えるが、このような事全てが批判されている。...私に言わせれば、ハクトウワシをこの国を代表するものに選ぶべきではなかった。それは道徳的に悪い性格の鳥である。ワシは正直に生活してる訳ではない。...それ故に我々の国から「王の鳥」を駆逐した勇敢で正直なアメリカのシンシナティに対して、ワシは決して適当な紋章ではない。ただし、フランス人が言う「勤勉なる騎士」の位を表すには良く似合っている。
協会の影響は他の関心も呼んだ。憲法制定会議の代議員が大統領を選出する方法を議論しているときに、マディスンはマサチューセッツのエルブリッジ・ゲリーの次の演説を記録している。
この場合の普通選挙は根本的に性質の悪いものである。民衆の無知は、合衆国中に分散した男達に権力を与え、民衆を欺いてある取り決めに向かわせてしまう可能性がある。私はシンシナティという階級の中にいる人々の協会を観察してきた。彼らは尊敬に値し、団結し、影響力ある者達である。もし選挙が民衆に及ぶならば、彼らは実際に如何なる場合も大統領を選ぶであろう。私がこの協会を構成する人々を尊敬していることは、そのような権力を彼らの手に渡してしまうことの危険性と不適当であることに目を瞑らせることではない[2]。
ストイベン男爵。左襟に着けているのが協会の
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の初期にあった国際的な抗議の嵐が終息するにつれて、協会は教養のある公僕を輩出する機関として19世紀に頭角を現し、アメリカの西部への拡大を進め、ワシントン(連邦政府)における団結力を作り上げた。初期の協会員には次のような者がいた。タデウシュ・コシチュシュコ、ジョン・ブルックス、ウィリアム・ユースティス、クリスチャン・フェビガー、アレクサンダー・ハミルトン、ラファイエット、チャールズ・マクナイト、ストイベン男爵、ジョシア・ハマー、トマス・ポージー、リチャード・バトラー、ジョン・トランブル、ルーファス・パットナム、ウィリアム・ステーシー、ジェイムズ・ミッチェル・バーナム、デイビッド・ジーグラー(初代シンシナティ市長)、エベネザー・デニー(初代ピッツバーグ市長)、ジョン・ポール・ジョーンズ、トマス・タクスタン、ナサニエル・ラムゼー、アイザック・フーガー、ウィリアム・S・スミス。また、初期の連邦保安官であるロバート・フォーサイスやアラン・マクレーンも含まれていた。
協会はアパラチア山脈から西にアメリカでは最初の大都市の多くを建設していく時に必要不可欠な存在だった。オハイオ州シンシナティ市、ペンシルバニア州ピッツバーグ市などが顕著な例である。|北西部領土の初代知事アーサー・セントクレアも協会員であった。セントクレアは小さな開拓地であったシンシナティに協会の名前を採って名づけ、協会員の入植を奨励した。エベネザー・デニー中尉 (1761-1822)は当初からペンシルバニアの会員であり、1816年にピッツバーグが市制を布いた時に初代市長になった。ピッツバーグはピット砦が成長した町であり、独立戦争中の砦の指揮官は4人とも当初の会員になった。
南北戦争は合衆国全体と同様に協会にとっても大きな試練となった。ロバート・E・リーは会員の資格があったし、北軍も南軍も多くの士官が会員であった。それにも拘らず、協会は戦後回復し、21世紀まで活動を続けている。
今日の協会はアメリカ独立を成し遂げた男達の理想と行動、およびアメリカの歴史、特に独立戦争の勃発から米英戦争にいたる期間に対して、大衆が理解度を増す努力を支援している。協会の本部はワシントンD.C.のアンダーソン・ハウスにあり、当時の出来事や軍事科学に関連する原稿、文献、肖像画、模型など多くの収集品を維持している。協会員は、アメリカ合衆国の代表する民主主義の重要性について共和主義的政体という流れの中で、アメリカ人に教えるために、教師役になったり、表彰したり、教材を作る活動をボランティアで行っている。会員の定義と入会はワシントンの本部ではなく、各州の支部での機能となっている。
協会の立てた目的は既に現実のものとなってきた。協会は独立戦争の退役軍人に対する補償を政府がおこなうべきということを提唱した。退役者の給与、健康管理および傷痍軍人や元軍の関係者の福祉、戦争未亡人や孤児の補償という概念も協会の主要な目的であった。この目的の達成までには多くの年月を要した。例えば、独立戦争退役軍人が補償を受け取ったのは1834年のことであり、傷痍軍人や生存者の補償計画が実現したのは1865年であった。軍属の福祉、補償、および記念を行う補償統合制度をアメリカ合衆国が始めたのは、連邦退役軍人管理の始まった1930年のことであった。さらに、連邦政府退役軍人担当局を立ち上げて、独立した内閣の中の局レベルまでにしたのは1989年であった。協会の目的は兵士、士官双方の福祉を良くすることであり、その家族、あらゆる人種、少数民族、教義も含まれた。退役軍人に関する協会の計画は大半が達成され、今日の協会は「友の協会」となり、その目的はアメリカ合衆国の設立に貢献した歴史、原理および価値観の大衆に対する教育に変わって来た。